モノだけに頼らない“新たな「日本流」”
去る10月19日から23日、日経新聞に特集記事;
【危機からのニッポン再生】 ≪大転換≫ が連載された。
昨今、グローバル経済の真只中で、呻吟するニッポン。半世紀前、敗戦後の復興を遂げて以来、21世紀初頭まで、ほぼ、続伸的な成長を遂げ、経済大国にまで登りつめた道筋を辿りつつ、“日本流”再生の道を探る記事でした。そこには、多くのヒントが見られ、興味を惹かれました。
この記事を要約しますと、
「日本のモノづくり」は、敗戦で自信を喪失した日本人が誇りを取り戻した「拠り所」であり、今日でも「日本のモノづくり」への格別の思い入れがある。しかし、市場がグローバル化し技術がデジタル化した現代、モノだけで世界に感動を与えるのは難しい。「日本のモノづくり」をグロ-バル化するためには、“日本人自身”が世界に出て行き、従来の「made in Japan」中心から、「made by Japan」を世界で推し進め、モノづくりの価値観を示す時である。
政権交代で一段と厳しくなりそうな環境、労働規制。再びの円高。企業が国内でモノを作り、雇用を支える条件は、日増しに厳しくなっている。すでに多くの企業は、活路を求めて、生産の場を海外に移し始めている。課題は、“生産の場を海外に移した後も、国内で培った「日本流」の遺伝子を残せるかどうか”である。
金融危機後の世界経済のキーワードは利益、スピードから、信頼、安全に変わりつつある。信頼を重んじる商習慣や、環境・省エネ技術である。戦後、日本が積み上げてきた経験を、『モノだけに頼らず実現できる新たな「日本流」』を見出すことができれば、それがニッポン再生の近道となる。と総括されています。
以下に、日本のモノづくりが、1945年敗戦の復興を遂げ、それ以来、「made in Japan」に拘り続け、21世紀の初頭まで、経済成長を続伸させながら、なぜ、現在の蹉跌に陥ったのか、私の体験も含めて振り返って、「made by Japan」へのイノベーションを考えたい。
1945~60年頃:“もはや戦後ではない”への成長
国産家庭電化製品の量産が立ち上がり、一般家庭への普及が始まった。その頃、皇太子(平成天皇)のご成婚の儀が行われ、私は、東京の下宿屋で家主が買ったばかりのTVで、見せてもらった記憶が鮮明にある。
1960年代:東京オリンピック(新幹線開業)~大阪万博開催
60年代初頭で、産業機械制御装置に半導体の採用が始まり、瞬く間に普及し、後半ではプロコン・ミニコンが出現し、制御システムが高度化し、重工業分野(鉄鋼、造船、石油化)へ巨大投資が盛んに行われた。私は入社早々この時期に、制御盤設計課に配属され、その渦中にいました。
参照:『三菱FA事業の“胎動期”(前編)』;080916更新、『三菱FA事業の“胎動期”(後編)』;080922更新
1970年代:第一次オイルショック(73年)で景気・停滞と復活
スーパーの売り場からトイレットペーパが消えた。そして、会社では帰休、新入社員の待命など、緊急対策が行われた。これを境に、設備投資分野は重工業分野の投資停滞~投資は減退し、70年代後半からは加工組立産業(自動車など)へ投資分野が交代し大幅に続伸した。その影響で、制御機器は有接点リレーからPLCヘの大転換が起きた。
参照:『MPUが製造システムの進化を起爆した』;081117更新
1980年代:85年「プラザ合意」で240→160円へ円高進行
戦後の日本の製造業は、「made in Japan」で製品輸出による経済成長を続伸させてきたが、「プラザ合意」で、日本企業は戦略の変更を迫られ、大手製造メーカ;自動車メーカなどは米国へ生産シフトし、日本流改善活動を定着させ、業績を伸ばし米国での存在を確立した。その恩恵で、当時のコントローラ事業は、自動車メーカなどの海外設備用として国内販売で伸長を続け、大きな影響は受けませんでした。さらに円高により半導体部品は安くなり国内需要が拡大し調達が逼迫した。製作所内の製造部長からせっつかれて、居た堪れなくなった資材課長の‘T’さんが、リュックサックを背負い米国へ納期督促に出張し、出来立てのホヤホヤの部品を持ち帰られた事が、後々の語り草になりました。
1990年代:95年金融バブルが弾け一時80円切ったが持ち直す
‘強い円’を背景に、日本企業でも米国の企業や不動産を買収する例も出た。一方、国内では工場閉鎖が相次ぎ、産業の空洞化が懸念されていたが、遂に95年4月、一挙に80円を切りパニックとなった。当時、私は名古屋製作所長でしたが、瞬く間に円は高騰し、生産は1/3に激減。帰休では対策不充分で、近隣のエレベータを生産する稲沢製作所へ社宅から通勤バスを仕立てて所員を応援に出し、その場しのぎをやった苦い経験が忘れられません。その後、幸いにも(?)米国の金融バブルの過剰消費に支えられ、90年代後半からはおおむね120円前後に推移し、再び対米輸出は増加に転じた。この時期では、長期戦略としての「made by Japan」などの発想、思いも及びませんでした。
2008年:11月 金融危機勃発
金融危機直前では、日本の輸出総額の17%以上が米国向けとなっていたと云う。本年9月での円・ドル相場は95円程度で推移しており、95年に次ぐ円高の水準にある。輸出比率の高い製造企業にとっては大きな負担となる。モノの価格と性能を武器に輸出を増やす戦略は限界に達しつつある。
10年前に、我々、製造システム制御のベンダーとして、「made by Japan」の視点で何をなすべきかを発想しなかったのは悔やまれますが、今にして思えば、幸運にも、95年金融バブルが弾ける直前の91年、三菱電機・名古屋製作所の敷地内に、『FAコミュニケーション・センター(FCC)』が竣工し、オープンしたことです。
当時を思い出すことは、営業部長の‘K’さんが、私の席へ “センターの名前を『FCC』と決めてきたぞ!”と駆け込んで来られた時のことです。従来は、この様な製品展示する施設は、‘技術センター’でした。それを敢えて、‘コミュニケーション・センター’としたのです。一瞬、エッ!と、思いましたが、時間がたつにつれ、この命名は、“お客様と同じ目線で、お客様のためのFAのあり方を語り合う場所”であり、将に慧眼であったと、益々思うようになりました。そして、もし、この計画が2~3年遅れていたらFCCは実現していなかったと思うと、誠に幸運でした。
この『FCC』の運営は、内外のお客様に好評で、このサテライトは順次、グローバルに設立されてきました。近年では、欧、米、英、中国、韓、台、アセアン諸国に12か所に及び、つい先だって、インド・ムンバイ市に、『インド博物館長』清 好延さんのブログ目次‘出来事’で取り上げて頂きました様に、『三菱電機インドFAセンター開所式(2009.6.11)』が行われ、現状では13箇所のグローバルFCCと名古屋中核FCCのグローバルサーポートネットワークが形成されています。
ここで、今一度、このグローバル・FCCネットワークの在り方を模索し、「新たな日本流」の遺伝子を伝え、「made by Japan」をサポートすることが出来れば、まだ間に合うのではないか? と思うのです。