ロボット事業を含めたFA事業の取組み

昭和58年4月、この‘SRIプロジェクト’の共同研究が進行する中で、私は、再び本社へ転勤を命じられました。当時、名古屋製作所(略称:名電)以外の長崎、福岡、福山、稲沢、相模の製作所でも、ロボット事業が有望視され、それぞれの製作所が得意分野向けロボットを開発し、夫々の営業チャネルを通じてバラバラに販売を始めておりました。その様な状況を改善するため、機電事業本部傘下の産業機事業部に、これらのロボット販売を集約し、「産業メカトロニクス事業部(産メカ事)」と改名して、販売推進を一本化する方針となりました。従来のNC、放電・レーザ加工機、溶接機に加え、これらのロボット販売を担当することになり、「ロボット部」が新設され、その配下にロボット営業課とシステム課が設けらました。私は、このシステム課長に任命されたのです。名電ではシーケンサ事業が緒につき始めたとは云え、そこを離れる心残りと、営業の‘強ものドモ’の真っ只中に放り込まれて、6製作所が開発しているロボットシリーズの機種戦略・販売サポートの技術体制を強化するという「ロボットシステム課長」の任務が与えられ、部下は営業出身者という環境の中で、さて如何したものかと、赴任の新幹線の中で、不安に駆られていました。そして、着任を待ち構えていた様に、翌日、新生・産メカ事業部の‘上野の花見’の日取りが決まっていました。幹事は、新任課長がやるのが恒例と云う事で、当日の昼過ぎ、課員と一緒に上野に出かけ、場所取りをして、花冷えのする桜の下で、震えながら日が暮れるのを待ちました。部下の人たちは、心得たもので、新米課長を守り立て、すっかり打ち解け、本番の花見も皆で大騒ぎし、楽しく幹事をこなすことが出来ました。それまで、本社は、地方から見ると‘煩しい存在’で、一歩身を引いて身構える癖がついていましたが、いきなりその渦中に放り込まれました。この経験で、営業部門は“ざっくばらんにやればいいのだ!”とヘンに納得し、その後の本社内の仕事で、自由に振舞う度胸が付き、心配無用となりました。

仕事の手始めは、“ロボットシステム課の役割とは、何ぞや?”を、事業部内でのコンセンサスを得るための資料を作ったり、関係者へ説明する中で、その内容を煮詰めて行き、本社内の関係部門や幹部にプリゼンをして歩きました。その主旨は、“ロボットは単体ではなく、‘SRIプロジェクト’で開発進行中の、FMS,FMCシステム構成の中核製品の位置づけであることを念頭に、ロボット本体のあり方と、周辺装置との連携を制御するコントロール/コンピュータシステムのあり方と両方を追求すべきである。” と言うことでした。しかし、営業の人達は、今まで、工場が作った製品を単体商売することに馴染んでいたので、“理屈は分かるが、商売になるのか?”と、中々理解が進みませんでした。その頃、名電のS所長が本社へ出張された折、我がロボット部のY部長を訪ねられ、昼食を共にされることがありました。私もご相伴するよう命じられ、その席で、“本社では雑用の仕事が多く、何してんのか訳け分かりません!”と直訴に及びました。するとY部長が“佐竹、もう暫く待て、時間をくれ!”と狼狽され座が白けました。その後で、Y部長は、“S所長は、ロボットの商売は、ピッチャー(工場)がボール(製品)を営業に投げ込んで来ても、優秀なキャッチャーがおらんとアカンだろう、とお前を出してくれはったんやで!”と、云われました。

そして、次の2つのことが電光石火の如く実現されました。

01)秋の見本市で、「模型自動車の組立てロボットライン」を出展
Y部長より、“秋の大阪見本市(現在のDMS展の前身)で、三菱が本格的にロボット事業の開始をアッピールする展示を行う。応用研究所のT部長の全面協力を取り付けてある。”と、その取り纏めを指示されました。その結果、研究所のT部長の思い切った発案で「ベニヤ板製の模型自動車組み立ライン」を作ることになり、四苦八苦して開催ギリギリ間に合いました。そして、私は大阪見本市セミナー会場の晴れ舞台で、「三菱ロボット:‘MELFA’のシステム方針」を講演する栄誉を得ました。

02)FAシステムの技術サポートセンター(FASEC)の設立
58年10月、本社ロボット部組織として、「FA System Enginering Center(FASEC;ファーセック)」を名電駐在で発足し、私はロボット部次長に昇進し、FASECセンター長も兼務することになりました。

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