シーケンサー設計課設立への道
1975年に制御盤設計課が、1課(盤設1)と2課(盤設2)に分離され、私の所属していた自動化Gと、分立していたシーケンサーGは、クレーンシステム制御盤設計Gを母体に盤設1となりました。一方の盤設2は、工作機用制御盤設計Gを母体に、サーボ、インバータなどのパワエレ駆動システムユニットの設計を担当することになりました。この組織改革は、この時代の流れの大きな変換点を意味していました。従来の盤設課は、重電顧客を中心として、案件対応のオーダ制御盤を納入する、所謂‘オーダ製品(量販製品と対比)’の設計を担当する部門でした。従来の三菱電機の工業用機器販売は、モータ、トランス、盤用機器等の量販(量販=販売店経由のルート間接販売)を担当していましたが、この組織改革を契機として、エレクトロニクス制御機器販売を加えた量販体制へと進化させる大きな意図があったのでした。
73年に端を発した「第1次オイルショック」により、名古屋製作所の生産量は従来の60%程度までに激減しました。日本の工業力の発展を支えてきた鉄鋼などの素材型産業が停滞し、従来の工業用機器の販売網は、売るものに飢え、三菱電機として永年培ってきた強固な販売網は離散する危機に陥りました。
一方で、自動車産業などの加工組立産業の成長が始まりました。その裾野に広がる多様な機械メーカ、盤メーカも加工組立産業への関心を深めました。三菱の汎用制御機器販売部門は、この裾野が拡がりつつある市場へのシーケンサー、インバータなどの産業エレクトニクス製品を、手離れ良く売れる汎用製品(従来の盤用機器と同じ様に売れるエレクトロニクス製品)を渇望していました。
01)量販製品に対する技術者の意識改革
盤設1課になった自動化・シーケンサーGは、先に述べました様に、未だ、クレーン自動化CLPシステム、大型シーケンサー盤(プログラム入り制御盤)など、重電顧客へのシステム販売に没頭していました。これらのオーダ案件が一段落した78年に、機器販売部門からせっつかれて、やっと汎用シーケンサーMELSEC-008(参照:開発の由来)を販売開始しましたが、重電製品の開発思考から抜けきらず、順調には立ち上がりませんでした。例えば、I/Oユニットのコネクター接続が不評であったため、急遽、その点を改良した端子台付きI/Oユニットを装備する「MELSEC-007」を開発し、79年に発売しました。しかし、これもCPU、I/Oユニットのサイズが、競合他社よりも大きくなってしまい、‘盤屋さん’に再び不評を買いました。さらに、ユニットサイズが大きくなったせいで、CPUユニットからI/Oユニットへのバス接続が長く伸展し、ノイズに弱いという問題が発生しました。(参照:シーケンサー事業の草創期―Ⅰ)
折角受注した某自動車メーカの組立ライン用のシーケンサーを、機械メーカ(盤屋さんを含め)経由で納入し、現地調整が始まった段階で発覚し、その対応に迫られました。
或る時、シーケンサーの販売会議に出席し、008、007の度重なる製品クレームの続出の弁明をさせられました。隣の席に座っていた他製作所の課長から、“佐竹さんは、「針のムシロだねえ!」”と囁かれました。
我々技術陣は、重電思考の製品開発から機器量販エレクトロニクス製品開発へ移行する過程で、技術認識の甘さを、多くの回り道をして苦い経験を通じて学びました。
02)販売部門のサポート技術武装の助っ人:「CET」
「第1次オイルショック」後の1970年代半から、名古屋製作所から、電動機・変圧器・制御器などの多くの設計技術者を、当初は担当機種の拡販を図るため、営業所へ派遣駐在させました。しかし、彼等は顧客訪問すると自分の経験機種だけでなく、全機種の対応をしなければならない立場になり、顧客指向の対応力の技術集団として、その後一貫して、‘ CET=Consultant Engineerinng Team ’の存在を築きました。彼等は、シーケンサー、インバータなどの汎用エレクトニクス量販製品をユーザの立ち場にたった知識は、必修科目として学び、FA機器製品の総合コンサルの実戦を通じて、レベルアップしました。
03)シーケンサー設計課への道
79年の半ば、懸案のNKK(扇島)プロジェクトが完結し、当時我々の所属する機電事業本部(重電・機器事業所管)の本部長から、臨時本部長表彰を我が盤設1課と関連部門に授与されることになりました。表彰状を名古屋製作所の‘S所長’から伝達されることになり、当時の課長の私が受け取りに所長室に出向きました。その折、‘S所長’から、 “この様な記録品で会社に貢献するのも良いが、この技術をもっと量販製品に生かすこと!”と 云われました。そして、翌年の80年3月に、総勢30人ばかりの盤設1課長を解任され、総勢7人のさむらいで構成する「シーケンサー設計課長」の辞令を貰いました。重電事業への逃げ場を絶たれ、汎用シーケンサーに専念する事になりました。