杉山氏を偲ぶ、同僚先輩からの言葉
1970年半、自動化グループ(G)の中核メンバーで、CLP-Nシリーズの応用システム担当の‘Nさん’と、CLPシステム開発担当の‘Iさん’が、『杉山氏の御足跡を偲ぶ』を読んで、当時の彼(入社初期5年の時代)の活躍を彷彿とさせる証言をして頂きました。
01)‘Nさん’からは、“佐竹さんのブログを読みまして、杉山さんの急逝に対して、いろいろなことを想い起こします。そんなことを、思いつくまま記しました。
当時(1972)、自動化Gに私も属しており、自動化搬送システム等を設計しておりました そんな時(72年12月頃と思いますが)に、杉山さんが移ってきました。彼の専門は情報工学(画像処理)と聞いて、盤設の従来までとは違った分野の技術者が来たなというのが、印象でした。 当時の私は、電子計算機講座を1年間受講した後でしたので、特に違和感無く受け入れられました。何故、この講座を受けたかというと、新日鉄君津の大形整理ヤードでコシ電(コンピュータシステム製作所)のシステムを見て、今後はこういう技術が必要になると思ったからです。
そのころ、SKアルミ社の自動倉庫システムの商談があり、‘Naさん’がN型シーケンサ(初期のCLPシリーズの呼称)のSW、私が駆動盤を含むHWを担当していました。‘Naさん’の配下で、彼はタイミングよくSWの仕事(OSの製作やサブルーチン化)を担当されたのを思い出します。 SWといっても機械語を直接打ち込むやり方でしたが。その後、彼はN型シーケンサのSWの標準化(リアルタイムOS)を更に進めておられました。 特に、リアルタイムOS(マルチ)の開発については、私も大いに啓発されました。74年前半には、私自身がSHアルミ社の自動倉庫システムをHW/SWを担当し、システムの組み方で、一緒になって仕事を致しました。当時は、まだOSにバグが残っており、現地から不具合状況を電話で話し、いくつかの不具合を潰して行った事もありました。
74年後半から76年にかけては、新日鉄(若松)の原料ヤードの自動化システム(合計7set)を受注し、このコントローラとしてN型シーケンサを採用しました。この時に、N型シーケンサのH/Wの見直しとアッセンブラー言語の開発を行いました。H/Wについては、杉山さんがCPU周り/私がIO周りを、共同して見直し/再設計を行いました。アッセンブラー言語の開発は、当然杉山さんが行ったのですが、その後のシステム設計が極めて楽になり/且つ設計ミスが大幅に減少したことを覚えております。 それらをベースに、ソフトウェアの表記方法の標準化(シートのフォーマット化)を、一緒に進めた事も思い出の一つです。
そして、杉山さんは、「NKK(扇島)プロジェクト」のCLP-N30のHW・SWの標準化を黙々と進められ、応用システムの私たちは、リアルタイムOSの使い勝手がよく、サブルーチン化も一緒にやってくれ、多いに助かりました。その経験が、その後のシーケンサのSW開発にも大いに活かされたと思います。”と振り返って頂きました。
02)一緒にCLPシステム開発を担当し彼を指導して下さった‘Iさん’からは、“杉山氏のご逝去の追悼文 拝見しました。トランスから、盤設に移られたことは、杉山君自身にとっても、Fシ部(注、名古屋製作所FAシステム部;88年発足:当時から約15年後)にとっても、非常にハッピーな、結果になりましたですね。ただ、三菱電機の経営陣から大いに期待されるなかで、杉山君自身は、最後は、本当に、不運だったですね。” と偲んで頂きました。
72年に、大学で情報工学を学んで卒業された彼にとっては、変圧器設計課への配属は、いかにも勝手違いであったかと思われますが、我が自動化Gへの転任も未知の世界で不安であったかと想像します。しかし、自動化Gでは、まさに、ワンチップCPU(MPU=Micro Processing Unit )の出現の当初からμPコントローラ(CLP)開発に参画され、その後、彼は毎年の如く進化するMPUをFA分野へ適用する先駆者となり、MPUを知り尽くし、SW応用の利便性(SW設計手法とデバッグの効率化)と品質確保の仕組みを開発し、自ら実践して確立してくれました。このエポックは、彼にとっても、三菱FA事業に携わった人達にとっても、‘Iさん’が云われるように、この上ない幸運であったと今更ながら思います。