杉山彰氏の三菱電機FA事業のご足跡を偲ぶ
去る7月24日、三菱電機㈱より、“杉山上席常務執行役におかれましては、かねてより病気ご療養中のところ、ご養生かなわず、7月22日(火)にご逝去されました。” との訃報に接しました。同氏は1972年に技術職として三菱電機㈱に入社され、名古屋製作所に配属されて以来、FAシステム事業の草創期から一貫して携われ、同製作所のFAシステム部長、製作所長を経て、本社の上席常務執行役・FAシステム事業本部長を06年度まで歴任されました。FA事業開発の草創期の苦闘を乗越え、当社業績を支える大きな柱にまで成長させました。そして07年度より、これまでの事業経験を活かし全社事業戦略の企画推進の担当役員として活躍を嘱望されている最中に倒れられ、逝ってしまわれました。FA事業の逸材として大成され、これから全社レベルでのご活躍が大いに期待されるなかで、誠に慙愧に耐えない気持ちで一杯です。私は、杉山氏より10年早く入社し、同じ道を一緒に歩んできた仲間の一人です。氏の仕事に立ち向かうタフさとバイタリティの凄さを知れば知るほど、それを頼りにして一緒に戦ってきた戦友として、あまりにも若く、呆気なく病に倒れ、逝ってしまわれたことを現実として受け止め難いのです。
今年の10月に、名古屋製作所にFAシステム部が誕生して20周年を迎えます。不肖私が初代の部長を任じられた縁もあり、現在の部長のT氏から、「FAシステム部20年のあゆみ」の編纂に当たり、寄稿を依頼されていました。10年前に発行された「10年のあゆみ」にも寄稿していましたので、それを探し出し当時の内容を読み返し、今度は何を書こうかと思案して、原稿を仕上げ提出したのが7月下旬でした。その直後に杉山氏の訃報に接したのです。この前の10年史を編纂された当時の部長は、まさに亡くなられた杉山氏だったのです。今年の4月頃、ご本人から快方に向われているとの電話を頂きましたので、復帰されることを信じて快復を待ち望んでいた矢先のことでした。ともに20年のお祝いができることを楽しみにしていましたのに、帰らぬ人となられました。多くの一緒に仕事をされてきた方々も落胆一入だと思います。
このブログをかりて、三菱電機のFA事業の胎動期・草創期にあった事柄を回想して、『杉山彰氏の三菱電機FA事業のご足跡を偲ぶ』を捧げ、ご冥福を祈りたいと、以下に記憶を手繰り、書き進めさせて頂きます。(以下で、杉山氏を“彼”と書かせて頂きますことをご容赦下さい)
01)1972年(S47年)彼の入社当時のこと
彼は入社して、名古屋製作所の‘配電変圧器設計課’に配属されましたが、暫くして、彼の上司S課長に伴われて、私の所属する‘制御盤設計課’のT課長席に訪れてきました。そのうち、私もT課長の席に呼ばれました。そして、S課長が私に、“彼は、変圧器設計は性に合わないと泣きつくんだよ! 君のところで使ってくれないか?”と言われ、あまりにも唐突なことで返事に窮しました。名古屋製作所が担当する配電用中容量変圧器は量産製品で、当時熾烈なシェア争いが行われており、有為な新人が欲しいと、頼み込まれて配属して貰ったばかりでしたが、S課長の大学の後輩でもある彼の願いを無視するには忍びないと、頼みに来られたとのことでした。私は、当時‘自動化グループ’の主任をしていました。クレーン・コンベヤの自動化システムの設計担当で忙しくしていましたが、プロジェクト崩れなどで、儲からず、新人配属は夢のような話で、願ってもないとでこちらからも懇願しました。これが彼との出会いでした。後々にも折りに触れ“佐竹さんに拾って貰った”と云ってくれました、そして、身を粉にして大活躍をしてくれました。
彼が‘自動化グループ’に入っての初仕事は、奈良・吉野の社員旅行の幹事役でした。当グループは、女性2人を含め8人ばかりの少人数でしたが、全員参加の旅行をしました。彼は、関西育ちの地の利を生かして、当時としては珍しい「貸し自転車乗り捨て」のちゃめっ気たっぷりのユニークツアーを企画してくれ、皆で大いに楽しみました。
彼は、仕事を選り好みするタイプかと少々心配しましたが、意外にも幹事としてグループ員と一遍に親しくなり、上手にツアーの舞台回しをし、みんなの人気を博したことが印象に残っています。長じても、磊落で、度胸のいい所、舌を巻くことしばしばありました。
次回から、彼が1972年に入社しFA事業の‘草創期’で活躍する時代を、さらに10年を遡り、60年代から70年代へつながる‘胎動期’を回想します。