FA-IT-Researchでは、製造業の現場のキーワードである『見える化』、そして、 そのアキレス腱となる『FA-IT交差点』にスポットを当て、皆様との議論の絆、 知恵の輪を広げていきたいと思います。

2009年06月22日

日本は、『設計立国』を目指せ

米国の自動車企業が拘った‘分業型組織能力’は、歴史的産物であった。19世紀、流入する移民を即戦力としてきた米国には、「分業重視・調整回避」の製造思想が長く継承された。この「アメリカ製造方式」は、部品の加工精度を高め、組立ての調整作業をなくす「互換部品」に立脚していた。それを完成させたのは、1908年フォードが発案した‘T型フォードのコンベヤ組立てライン’であり、大量生産による圧倒的原価低減を達成し、成功を収めた。しかし、通用しなくなって、久しい。

一方、日本の製造企業の‘統合型組織能力’も、やはり歴史的背景があった。戦後、長期雇用・長期取引を背景に、設計・生産現場が、多能工チームワークにより継続的に練り上げてきた産物であり、一朝一夕に、他者が到達できない企業能力である。

この彼我の企業が指向する‘組織能力’醸成の違いで、前回のブログで掲げた事例のように自動車産業の市場が『小型主流時代』に変遷し、日本流の‘統合型組織能力’に軍配が上がったのである。そして着目すべき点は、日本の自動車部品メーカは、車体メーカの垂直関係で海外進出し、取引されているのが通例であったが、近年、独、韓の車体メーカに選ばれるまでに成長したことである。この事実の中に、その自動車部品メーカ自身が、グローバルオープンな取引もこなせる‘統合型組織能力’を進化させている事が、見て取れる。この成功をみて、他の部品メーカも海外進出を追従することが期待され、日本の製造業の未来に一筋の光明が見えた気がします。

しかし、この企業は長期受注の成約に成功したとは言え、日本の汎用電子部品の様に‘分業型組織能力’の方への転向を迫られる試練が訪れる恐れもある。そちらへ押やられた場合は、汎用部品のコスト競争のビジネスに陥ってしまう。この道への繰り返しでは、日本の製造業はグローバル市場に存在感は薄れるばかりである。

今や、“日本の製造業がグローバル市場でリーダシップ取り続けるには、『如何なる独自の強み』で臨むべきか?”を各企業が自問自答し、着実にその能力を熟成しなければならない正念場にあると考えます。

再び、藤本先生の参考になりそうなインタビュー記事を見つけました。

お勧め記事;
日経:09年4月26日 P6 ≪検証・グローバル危機≫ 藤本隆宏氏 東大教授に聞く

【日本は設計立国目指せ】 《深層の競争力、維持がカギ》
(関係文のみ抜粋・簡略化加筆)
―― 日本の基軸産業が揺れています。
企業の競争力には『表層の競争力』と『深層の競争力』の二つがある。表層の競争力は売上高やシェアなど数字で表れる。一方、深層の競争力は開発や生産など現場の実力を反映する。
今、日本の輸出企業は表層の業績に大きなダメージを受けている。これが現場の深層の競争力にどれだけ影響を及ぼすか、最近見た自動車工場では生産量こそ減っているが、品質やリードタイムに乱れはない。

―― 日本企業の強さに変わりないと?
企業はピンチだが、強い現場は残っている。業績が落ちる今こそ、現場の『深層の競争力』をどれだけ維持向上できるかで、差が出るだろう。
生産量が減れば労働生産性は低下する。肝心なのは製造品質、設計品質や、開発生産性が落ちていないかどうかだ。それ次第で危機からの復元力に違いがでる。現場力の維持に成功したか、5年後に分かる。

―― 日本は製造業中心で生き残れますか?
日本が今後、どの産業で勝負していくかは、従来型の産業分類;鉄、自動車、家電・・・など、では、もはや分からない。現場で夫々の製品の設計思想を確認する必要がある。
例えば、日本の化学産業は構造不況に陥ったが、精密化学に注力して競争力をつけた例もある。同じ業種でも弱い分野と強い分野、国内で伸ばすべき分野と縮小すべき分野が混在している。

―― 日本にとっての戦略分野は何でしょうか?
ひと言で云えば『設計立国』。シュンペターは、革新には製品設計だけでなく、プロセス(工程)設計から組織設計まで様々なタイプがあると説いた。
『製造業から金融へ』というスローガンでは大雑把過ぎる。
どの分野でも設計能力が低ければ、淘汰される。競争を通じて日本全体の設計能力が底上げされ、あらゆる産業分野に日本の得意分野が散らばって存在する姿を予想する。
(聞き手は編集委員 西條都夫)

この記事にある様に、各企業が、自問自答し、自社の『深層の競争力とは?』を問い続け、それを長期視点での継続的熟成を図るための企業活動の仕掛けを『設計』し、絶えず革新・練磨することである。

2009年06月15日

『米国自動車危機』から学ぶ、教訓

世界経済の低迷で、悲観論が蔓延するなかで、日本の自動車部品メーカが北米で健闘している明るいニュースが報じられていました。

引用記事;
日経:09年5月23日 P1 コラム

【自動車部品】 『日本勢、北米で受注増』
“独VWなどから、安定経営が強みに”

(関係文のみ抜粋)
日本の自動車メーカが北米進出した時代に、一緒に進出した自動車用内装部品メーカが、現地で力をつけ評価され、独フォルクスワーゲン(VW)などの現地生産を新たに予定している完成車メーカから内装部品の一括大口契約や、既に米国に完成車工場をもつ韓国の自動車メーカから、樹脂製内装部品などの供給を、隣国メキシコに新工場を建設し対応する条件で、相次ぎ受注を獲得している。
米ビッグスリーの経営不振で、在来の多くの米部品メーカが打撃を受けているのに対して、日本からの進出企業は、経営基盤が比較的強固で、競争力のある日系部品メーカに受注が集まりだしているようだ。

この記事を見て、なぜこの様に、日本企業の自動車部品メーカが、日本車メーカのみならず、欧州や、韓国の自動車メーカが彼等にとっての海外である米国進出で、頼りにされる存在となっているのかを、我々日本の製造業が真に理解することが、国内に閉じこもる‘内弁慶製造業’から‘グローバル製造業’への脱皮を果たす、ヒントになると考えました。
そこで、上掲記事に相呼応するように、解説記事がありました。

引用記事;
日経:前日の5月22日 P29≪経済教室≫ 藤本隆宏氏 東大教授

【米自動車危機(教訓と展望)】『古い設計思想温存、裏目に』
“「儲かるトラック」があだに” 《組織能力、向上怠るな!》
 
(関係文のみ抜粋・簡略化加筆)
今回の不況で世界の主要自動車メーカの業績は軒並み悪化したが、中でも米国系企業は、より深刻で構造的な危機にある。その根底に、社会が求める製品設計と、米国企業が持つ組織能力の間に長く存在したズレがあった。
自動車は公共空間を高速移動する重量物であるゆえ、交通事故、大気汚染、温暖化など社会への迷惑が大きく、社会から課せられる要求や制約条件が年々厳しくなるばかりである。
一般に制約が厳しくなる時、製品設計は複雑化する。設計とは、人工物のあるべき機能と構造を結ぶ構想のことだが、要求機能や制約条件が厳しくなれば、機能完結部品を積み上げる「モジュラー型の設計思想(アーキテクチャー)」では対処が難しく、むしろ全体最適のため微細に調整された新規設計部品群が必要となり、こうした設計形式として、「擦り合わせ(インテグラル)型」が必要となる。
かくして先進国の自動車設計は複雑化し、例えば日本車では10年前と比べ、共通部品比率は下がり、電子制御の比率は高まり、新製品開発の作業量は増大した。モジュラー型の貫徹を諦めざるを得なくなり、日本・欧州車では時代が要請する‘小型車’設計の主流「インテグラル型」へ移行した。
しかし、米国車は、50―70年代の大型化・大馬力化・スタイル重視の市場全盛期で成功した‘トラック型’と云われる「モジュラー型」の設計思想に拘り続け、大型車で儲ける米国企業は、小型車技術の発展に無頓着であった。74年の第一次石油危機の襲来は「大型車のサイズ縮小」で凌いだが、83年の第二次危機では大型車で行き詰まり、小型車市場への参入を決めたが、同じ土俵で競争することで、生産性、製造品質や開発スピードなど、現場力での対日劣位が明白となった。
そこで、米国企業は政治に頼り、日本車の対米輸出規制を成立させ、時間を稼ぐ中で「トヨタ生産方式」の‘統合型組織能力’を学び、米国の‘分業型組織能力’主義からの脱皮を試みた。その一方で、「儲かるトラックビジネス・モデル」の復活を企て、ミニバン、スポーツ車、ピックアップ等の‘楽に儲ける米国流競走戦略’の新市場開拓で、競争を回避し、日本勢のこの市場戦略ミスもあり、奏功し、90年代は日本企業を上回る利益を出した。
しかし、皮肉なことに、このあまりの成功が、長期判断を誤らせ、彼等の‘統合型組織能力’の構築は中途半端に終わり、根本的問題の解決に正面から地道に取り組み続けることが出来なかった。21世紀に入り、米国市場での小型車販売は提携先の日韓欧からの輸入に頼るびほう策で凌ぎ、政策を味方に付け、金融バブル期にローン販売を煽り、トラックビジネス・モデル延命策に傾注することに終始した。その末路は、金融バブルの崩壊で致命的となった。

今日から振り返ると、“米国は小型車開発力の停滞が最大の弱点となった。” そして、“一見、「賢い競争戦略」ゆえに、長期的な能力構築を怠ることの怖さを我々は教訓とすべきだ。”と筆者は、喝破している。

2009年06月08日

これからは『飛び越し型』進化が求められる

私のブログは、去る4月27日更新の『88年FAシステム部発足前後の出来事』で、昨年9月8日の『杉山氏を偲ぶ』の御題を借用して、始めました《三菱電機FAシステム事業の前史時代(62年から88年までの4半世紀)の回顧録》を21回にわたる掲載で終了させていただきました。これを一区切りとして、5月の1ヶ月間休息させて頂きました。今回、6月から心機一転して再開いたします。

丁度、この『回顧録』掲載の期間、米国のサブ・プライム問題を発端として、全世界を巻き込む金融危機へと深刻化し、加えてメキシコからの‘豚インフルエンザ'が世界へ飛び火する懸念が深まり、経済活動の足かせとなり、100年に一度と云われる世界同時不況から、未だこの恐慌から脱する方策が見通せない今日にあります。

日本の製造業は、この回顧録を書きました四半世紀で、米国に次ぐ世界第2位の経済大国に成長し、東アジアの新興国を世界工場と言われるまでにリードし、世界経済を牽引するまでに発展を遂げて来ましたが、90年以降の日本国内では、少子高齢化が進む中で、さらに若者の‘ものづくり'離れの気風が広がり、近い将来、製造業の世界リーダの地位が危うくなることが懸念されていました。

私のブログは、この回顧録を始める直前までは、この一点に注目し、“この四半世紀で培われてきた日本の製造業の地位を維持し、これからのグローバル経済でのリーダシップを進化させるためには、如何にすべきか” と云う課題に対し、 日本が独自に築いてきた『和魂FA』を、欧米が先導してきた『洋IT』を咀嚼・活用することにより、両者の相乗効果手法を体現することで、日本の製造業を復権 させることが可能だと考え、話題にしてきました。

しかし、今や、世界同時不況に辛吟する中で、日本の製造業は従来の「積み上げ」方式の『和魂FA・洋IT』による進化では、今後のグローバル経済のなかでは不充分であることが明白になってきました。即ち、この度の金融危機を招いた根源は、“もはや限界に達したアメリカ流新自由主義”経済;企業の4半期決算に目を光らせ投資を短期で回収するファンド方式にあったという反省と教訓が世界の共通認識となってきたことです。この「ファンド方式」の新自由主義経済は、グローバル化により、国境が消失し、経済発展により人類を裕にするはずの自律メカニズムに失調を来たし、その弊害は、貧富の格差をますます拡大し、人類の平穏と幸を奪ったばかりでなく、地球環境破壊の歯止めが利かず、人類の生存を脅かす懸念が生じてきたことです。この教訓は、グローバル経済が進展する中で、世界同時不況に陥ったが故に、‘今後のグローバル経済のあり方'の 叡智として、地球人のコンセンサスとなれば、人類が掴んだ、‘不幸中の幸い'と云うべきではないでしょうか。

お勧め書籍;
≪「日本」再生への提言;資本主義はなぜ、自壊したのか≫ 中谷巌著
この本のP235にある【「国譲り」によって統一された日本の独自性】の項が興味深い。著者は、日本独自の精神文化が、これからのグローバル経済に必要であるという。

更に、引用記事;
日経:09年4月27日 P17≪経済教室≫ 児玉文雄氏 芝浦工大教授

【世界同時不況下の経営戦略】 『技術開発「飛び越し型」を軸に』
《過去の延長 断ち切れ》 “新たな社会システム構築”
(関係文を抜粋)
技術開発の体制の点でも変革が進む可能性がある。市場が連続的に絶えず変化する状況下では、既存製品を段階的に改善する方が大きな変化を要求する技術開発より有利であった。だが、既存製品の市場の成長が減退・停止する昨今では、従来の「積み上げ」方式からもたらされる「中間解」が持続可能でなくなっており、この「中間解」を飛び越し、新しい技術体系に突入する「飛び越し型」が必要とされているのだ。

とあります。 従って、これからのブログは、「飛び越し型」の視点を加えて『和魂FA×洋IT』を取り組まなければならないと思います。
従来の『和魂FA』は現場の地道な改善が中心でしたが、これからは、グローバル顧客ニーズの察知能力と製品企画力が第1で、実現技術のグローバル調達力:開発技術統合力・製品開発力・製造力が求められます。即ち、営業・技術・製造が一体統合された現場力の練磨が必要です。

2009年04月27日

88年FAシステム部発足前後の出来事

今回のブログで、FAシステム部(略称:Fシ部)が発足した88年10月前後の事柄を回想し、「杉山氏を偲ぶ」の終結とさせて頂きます。

01)Fシ部創設経緯と組織案の作成
当時の制御器製造部の担当事業は、09年3月16日更新のブログで書きました様に、大所帯の製造部でした。その中で、制御装置・システムは、産業エレクロトニクスの進展により、ディジタル応用のFAコントローラ(PLC/FAコントローラ)と、パワエレ応用の駆動制御ユニット(インバータ、サーボコントローラ)の単体販売事業が、従来の重電ルート販売の制御システム事業と比較し、機器販売事業部傘下の代理店・販売店ルートの間接販売が大きく成長し、将来的にも拡大が期待されました。更なる発展を期すため、制御器製造部を発展的に分解し、Fシ部、駆動システム部、電装品製造部、可児工場(部レベル)の4つの部を創立する方針となりました。 当時の名古屋製作所(名電)は、多様な産業エレクトロ&メカトロ製品を擁しており、コントローラとメカトロ製品全体をFAシステム指向で一貫性のある製品戦略とし、製品間の整合性と、シナジー効果で競争力を高める経営方針とされました。

この大方針のもとで、「新設:Fシ部」に与えられたミッションは、PLC事業を基盤に、“名電製品をハイアラキカルなFAコンポーネント&システム事業へ脱皮する推進役” となることでした。PLC事業が基盤とされたのは、当時、年間200億円規模に達していおり、PLC製品はシステム機能をモジュールユニット化することで成功し、コンポーネントの単体販売で、あらゆる産業分野に浸透しつつあったからでした。

これを受けて、Fシ部の革新体制は、①FAコントローラ(機種名‘C1’を‘LM(=Line Master )’と改名し、下位システム(PLC)との親和性を高めてFAの上位階層を強化する。②上位・隣接システムとの連携ネットワークとしてオープン‘MAP’を強化するため、「MAP開発グループ」を設ける。さらに、③メカトロシステムの中核となるロボット事業を担当していた「ロボット部」をFシ部に併合するとともに、従来、所内の生産設備エンジニヤリングを担当していた「自動機技術課」を、社外メカトロシステムへも対応出来るように、編入する。

上記の3点を含むFシ部組織創設案を、営業(業務)、経理、総務のスタッフで構成するプロジェクトに、私も参画し、答申案が作成された。

02)名電製品のFAコンポーネント・システム化の「旗頭の絵」
前項01)で「新設:Fシ部」に与えられたミッションとは“名電製品をハイアラキカルなFAコンポーネント&システム事業への脱皮の推進役”であると、所内で説明するために‘ポンチ絵’を作りました。

それは、円錐形の立体図で、その尖端部の1層は「FAコントローラ」、「MAP・ネットワーク」が、2層は「PLC」と「NC」が、3層は「サーボ」、「インバータ」が、そしてロボット、レーザ・放電加工機などの「メカトロ製品」は、2,3層に跨って円錐立体図に詰まっています。‘メカトロ・FA-システム事業’の役割は、名電製品の詰まった円錐図の2、3層部を『メカトロシステム』が右回しの矢印方向に駆動し、1、2層部を『FAシステム』が右回しの矢印方向に駆動して両システムが連携して、コンポーネント製品が詰まった円錐形を成長させて行く立体図です。

この絵のオリジナルは、81年に開発部FMSグループリーダになった頃、杉山氏との合作で、‘2Dの平面図’に画いた“円形曼荼羅模様図”です。7年後のFAシステム部の創設時では、上記の様に‘3Dの立体図へ進化’を果たしたものでした。

Fシ部創立20周年になった今日、この絵はどうなったかを、現役諸君が進化させた4次元で画いてもらいたいものです。

03)Fシ部発足当初のコト
三菱電機の新入社員は6ヶ月の研修を終え、10月に配属先が決まります。Fシ部発足と丁度同じ時期に、その年の新入社員の職場が決まり、名電の新入生歓迎会が、名電配属30数名の新入社員と名電所長、スタッフ部長と、配属受け入れ先の部長が出席して行われました。Fシ部配属は新入生の半数を超える17名でした。Fシ部は新人の憧れの的「ロボット」があったせいかも知れませんが、Fシ部長本人も驚きました。他の部長からさんざん嫌味を言われましたが、やや浮かれ気味でした。

そして、部長として始めて出席した部長会議の冒頭で、所長から、Fシ部長名指しで、“新城工場の鋼鈑フレーム化プロジェクトの進捗状況を、自部門の問題として把握しているか?”とドヤされました。鋳物製のモータステータを全廃し、鋼鈑フレーム化するため、名電製品のレーザ加工機で自動溶接する大規模プロジェクトを、輩下の「自動機技術課」が担当し、新城工場の現場で悪戦苦闘していました。私は、出身の制御システムに目が行き勝ちですが、立場として「メカトロシステム」へ、意識的に目配りしなければならないことを教えられました。

以上で、『杉山彰氏を偲ぶ』の御題を借用して始めました回顧録を謹んで終了させて頂きます。  

2009年04月20日

「MAPイベント 88i」とその後日談

01)米国・ボルティモアで開催された「MAPイベント 88i 」
80年代に入り、製造現場では多種少量生産に対応するFMS、FMC生産方式が望まれる様になりました。生産現場のネットワークとしてはリアルタイムに情報を交信する必要があると考えられ、ゼネラルモータ(GM)が主導して、MAP(Manufacturing Automation Protocol )を世界標準にしようとしていました。我が国においても、この標準化の波に乗ろうとする動きがあり、経産省傘下の(財)[IROFA(nternational obot FA Center)](注:この団体は現MSTC;製造科学技術センターの前身)が主宰して、「MAPオープンネットワーク推進協議会」を組織化し推進していました。三菱電機も会員となり、このMAPの実用化を先導しようと考え、F/Lシステム開発でS1、C1間のネットワークをMAP仕様に準拠し、‘FMSバス’を開発していました。その頃、88年春に、米国・ボルティモア市で、各国のMAP推進機構の会員ベンダーが集い、「MAPイベント 88i」を開催することが決定されました。我がC1開発プロジェクトはこのイベントをターゲットに開発を急ぎました。そして、出展デモ・モデルとして、FMSバスを実装したC1×2台(1号機、2号機)を用意し、‘1号機C1’と、溶接ロボットFMCを制御する‘2号機C1’とがpeer to peerでMAPを介してリアルタイム交信して、溶接ロボットFMCを操作するデモを展示することにしました。そして、88年のイベントの時期が迫り、ギリギリで間に合わせて米国へ出荷しました。

開発担当の2名の技術員が先遣隊として現地入りし、デモシステムの調整をしておりました。私と当時新入技師であったMAP担当の‘W’くんの2人は、後から出張し、機内で前祝いと称して、ワインをしたたか飲んで、ぐっすり眠り、米国西海岸のポートランドに機嫌よく降り立ちました。ところが、一転して、国内便へのトランシット時間が短く、空港内を小走りで移動し、やっとの思いで東海岸・ボルティモア便に乗り込み、開催前々日に到着しました。そして、私のバッグは空港で受け取れないトラブルのオマケ付きになりました。翌日、会場の当社ブースへ行き、何とか動くようになったデモを確認し、一安心。バッグ遅延で厄払したお陰だと思いました。そして、出展他社のブースを偵察に行き、吃驚しました。「MAPのイベント」と云いながら、ロボットとか製造設備とオンラインでデモしていたのは、世界広しとは云え、「Mitsubishi Electric、Japan 」の一社しかいなかったのです! 他社は、CADとかワークステーションとかをMAPで仮想接続したデモばかりでした。

イベント開催の前日、三菱電機USAが、傘下のPLC(シーケンサー)販売ディラー会議をこのイベントの見学会をかねて近隣ホテルで行いました。私はその会議に出席し、当社のMAPデモのプリゼンテーションを行うことになっていました。そして、スピーチの冒頭で、“I am so grad to see you at the Beautiful Baltimore!”とやりましたところ、出席者全員が大笑いしました、その時はなぜ笑うのか分かりませんでした。そして、MAPでロボットを動かしているのは、当社だけで、その先進性をアッピールしました。

会議が終わり、港町へ繰り出し、海鮮料理で‘MAPイベントの前夜祭’をやることになりました。海辺の方へ皆で、ガヤガヤぞろぞろ歩きながら行きました。しばらく行くと廃墟のようなスラム街に入り、とても日本人だけでは行けない所を通り抜け、質素なレストランに着きました。そこでは、皆がエプロンを渡され大きなテーブルを囲み座ったところ、白いベットシーツの様な布が敷かれ、そこへ大きなザルに入った『スパイスミソで合えた丸ごとの無数のカニ』をテーブルの真ん中に、豪快にぶち開け、山積みにされました。さあ、始めようと一斉に素手で食べ始め、酒盛りが始まりました。そのカニの美味かったこと、20年以上経った今も目に浮かびます。これは、スラム街の“地獄を通り抜けて行く”、知る人ぞ、知る“パラダイス料理”だったのです。朝のミーティングで皆が大笑いした理由が分かり、彼等の粋な計らいが嬉しかった。

02)MAPの後日談
帰国後暫くして、IROFAの年次フォーラムがあり、そこで、当時、‘MAPオープンネトワーク推進協議会の運営委員長’であった私は、「MAPイベント 88i 」をまじめな内容で報告しました。

それと前後して、MAPの国際標準化をリードするGMのカミンスキー氏が、三菱USAへ、「MAPイベント 88i 」の当社のデモセットをGMデトロイト研究所のショールームに展示したいという申し入れがありました。当方は、この展示品のオペレーションをGMスタッフに委ねることを逡巡していました。すると、ご本人が、日本へ来られ名電を訪れ懇願されました。三菱USAのスタッフからも、GMがそこまで言われるのは、今後のGMとの商談に有利なので、是非にと頼まれました。

その結果、私はデモ調整技術者と再び渡米し、デトロイト研究所へ移設の打合せに行き、デモシステムを移設貸与することになりました。

しかし、日本では、MAPは製造現場用には 過剰仕様のため普及しませんでした。そして、GMでも、デモセットは、その後、返却されて来ましたが、日本へ持ち帰らず米国で解体処分の憂き目となりました。

2009年04月13日

‘C1’開発の時代背景はパソコン勃興期

先回のブログで、FAコントローラ;FactoryLand(F/L―C1)の外販製品;1号機を某自動車メーカに納入し、現地調整段階に入り、プロジェクト崩れを起こし、奔走したことを書きましたが、その当時、F/L-C1(略称:C1)の製品開発の時代的背景は、IT(パソコン)勃興期の真っ只中にありました。

01)初代FAコントローラ;‘C1’の開発チャレンジ
80年頃に、熊本大のマイコンクラブのメンバーで起業した「キャリー・ラボ」と言うベンチャーがありました。そこで、 “BASICライクなマシン語でリアルタイムSWが組めるOS” を開発し、ゲームソフフトなどを開発していました。このOSを名電の‘C1開発プロジェクト’が探してきて、83年に、ユーザプログラム用言語として「三菱工業用リアルタイムBASIC(M-IRTB)」を開発し、NCの16ビットMPUのHWに搭載し、‘C1’を製品化しました。これは、C1本体を用いてインタプリター方式で、リアルタイム制御のユーザプログラムを組むことができる‘野心的’なコントローラでした。このC1の初号機を前述した某自動車メーカに納入し、‘プロジェクト崩れ’を起こしてしまったのです。その原因は、ユーザプログラムは現場で容易に修正できるという油断で、顧客のシステム要件の詰めも甘く、名電でのデバッグも不充分な状態で、現地に持ち込んだからでした。

しかし、本質論として振り返ると、‘インタプリター言語’と‘リアルタイムマシン制御’の両立は、パソコンの様なオフライン処理は兎も角として、マシン制御と直結した制御のプログラムでは、難しいのではないかと思われる。ある一部のSWを修正し、即時に実行できる点では便利であるが、生産ラインの機械を連携制御するロジック・シーケンスの隅々まで熟知し矛盾のない様に思考して、プログラム修正を行うことは、至難の技ではないかと思われます。このユーザプログラム言語は、パソコンOSの激しい盛衰が起こる時代の夜明け前に開発されたものでした。しかし、‘FAコントローラ’は、この生産設備制御の要因ばかりではなく、次の項目で述べるようにパソコンOSの激しい盛衰に影響され、翻弄されて‘コンパイラー方式’に戻る結果となりました。

02)80年代はパソコン(PC)OS盛衰の時代
‘C1開発プロジェクト’の杉山氏を含む開発メンバー諸氏は、この時代の解説と彼等がどう考え、‘C1’を開発したかの面白い逸話が書けるであろうと想像しますが、私は間接的にしか携わっていなかったので、《Wikipedia》を参照して解説を試みたいと思います。以下の文章を先ず読んで頂き、然る後に、文中のパラグラフからWikipediaを参照リンクしていただくと、理解を深めて頂くことが出来ると思います。

80年頃、8ビットMPU用OSとしてディジタルリサーチ社から、CP/M (Computer Program for Micro Computer)が出され、その後16ビットMPUへバージョンアップされたが、CP/Mは伸び悩みました。それは、84年に、使い勝手の良いアップルのMacintoshパソコンが出現し、Mac OSのGUI(Graphical User I/F)が強化され、シングルタスクOSでしたが、CADなどに適用され、一時もて囃されました。

また、80年頃、汎用機の隆盛期にあったIBMもパソコン開発の小規模プロジェクトを起こしていました。速やかに商品化を進めるため、SW開発は外部調達方針で臨みました。マイクロソフト(略称:MS)ヘCP/MベースでSW開発を依頼したが、ディジタルリサーチにCP/Mの使用を拒否され、止む無くMSへPC DOSの独自開発をさせ、ライセンス契約とし、87年にIBM-PS/2を発売しました。そして、MSに対し他社へのPC DOSマイクロ版のライセンス販売を許容した。IBMはPCのオープンアーキテクチャ方針を貫き、PC/ATバス仕様を一般公開した。その結果、PC/AT互換機のPCメーカが勃興し、IT業界の活況が始まった。

少し遡った85年に、MSは、ロータス、インテルと共同で、メモリ拡張手法の標準化;EMS(Expanded Memory Specification)を提唱し、その後90年にバージョンアップし、I/F、タスク管理、メモリ管理などの各種機能が網羅的に拡張された。さらに、92年に、日本IBMとMSがクロスライセンスし、日本語が充実したDOS/V が生まれ、PC/AT互換機メーカが多数現れ、性能・コスト面での激しい競争が行われました。その結果、PCは企業オフィス用途として浸透していきました。

95年、MSはDOS/Vをバージョンアップし、「Windows95」を出すに至り、PC普及元年と云われる大ブレークをしました。

2009年03月23日

88年FAシステム部創立までの事柄

これより「杉山氏を偲ぶ」の最終段階として、私が制製部の次長に就任してから、FAシステム部が創立される88年10月までの2年間の事柄を綴って行きたいと思います。

01)シーメンス社の開発担当副社長の名電来訪と独・研究所への招待
突然、シーメンス社の副社長が名電を来訪されると言う話が舞い込み、私とFAコントローラC1の開発リーダの‘N’さんとで応対すよう指示されました。シーメンス社からのVIP訪問ということで、緊張した反面、何を探りに来られるかの疑念も湧き、どこまでの説明と見学をして頂くか、喧々諤々となりました。結果的には、一般的な海外VIPのご案内コースと云う事で、名電のコントローラ関係(FA,PC,NC)の概要を紹介することに落ち着きました。

いよいよ当日の朝、副社長(S-VP)と日本シーメンス代表の2人きりで、名電へ到着されました。最初に、VIPルームへお入りになり、当社側は所長と制製・数製両部長に、私と‘N’さんとが同席して、歓迎挨拶と懇談をしばし行ったのち、ビデオによる名電説明をご覧頂き、あとは私達2人に任せられ、コントローラ製品をカタログで紹介した後、関連工場の見学と「加工技術センター」(注;現在のFAコミニケーションセンターの前身)へ随行し、各々の工場とセンター見学では、担当課長が待機しており、彼等が説明を行い、粛々と行われました。そして、昼食となり、「たちそう」という名電の接待レストランで、4名で‘簡素なサンドイッチ昼食’をとりました。‘S-VP’は品格のある紳士で、始終ニコニコと穏やかに談笑して下さいました。私たち2人は、無事に接待が終わりお送りして、ほっと、しました。

暫くして、S-VPから名電訪問の御礼とともに、私と‘N’さんを独・シュトゥットガルトにあるシーメンス中央研究所へ招待したいという書状が来ました。私達は大手を振って、欧州出張することが許可され、出発しました。デュッセルドルフの三菱電機・欧州地域販社(MEG)に立ち寄り、当時のMEGの代表‘N2’さんに付き添っていただき、シュトゥットガルト空港へ、3人は、降り立ちました。そして、ゲートを出たところで、なんと! S-VPさんご本人が独りで、ニコニコして出迎えて頂きました。既に日本で親しく談笑をしていましたので、研究所までの車では、一層話の花が咲きました。

研究所では、至れり尽くせりの準備が整えてあり、またもやご本人が付き添って、数箇所の研究室へ案内して頂きました。最初の部屋へ入ると、研究者が待機しており、白板に貼った説明用模造紙と現物を使って懇切な説明を受けました。他の部屋でも同じ様に説明を受け、我々一同、VIPになった気分で、スムーズに見学巡回しました。その様は、さながら三菱電機の社内のVIP・技術者を招いて毎年催される研究所公開の如き光景でした。そして、昼食の時間となり、シーメンスの上級幹部用レストランに案内されました。ここでもS-VPさんお独りで我々を接待され、美味しいディナーとワインを供され、話題が弾み、楽しんでいました。最後のティータイムの時、突然、日本の某自動車メーカヘ納入した「外販第一号のFactoryLand―C1システム」の現地調整で出張駐在している‘FAシステム課のKくん’から緊急電話が掛かってきました。(注:この内容は次の02項で書きます)
その時、S-VPに、“君たちは、そんなに忙しい‘VIP’だったのか!”と冷やかされてしまいました。

この出張で、この様な行き届いた接待を受けましたが、名電に来訪された時は‘何を探りに来られたのか?’と呟いていたさもしい心の底を見抜かれた様で、反省しきりでした。案の定、その後、シーメンス社との間ではなにも起こりませんでした。そして、その後のVIP接待の場面では、「最初が肝心」と肝に銘じて、心を尽くして行う事にしました。

02)外販第1号のF/Land―C1システムのプロジェクト崩れ
私達は、ドイツから帰国し成田に到着しました、名古屋への乗り継ぎをキャンセルし、首都圏にある某自動車メーカのトラック組立て工場近くのホテルへ、夕刻到着しました。そして、先ず、‘K’くんから、“プロジェクト崩れ”の状況を聞き、翌日の行動について打ち合わせしました。

このシステムは、仕様の異なるトラックの‘一個流し’式「運転台組立てライン」で、当日の組立て順に、マトリックス状の‘運転室キャビン’のストックヤードからジクソウパズル式に縦・横コンベヤを制御し、組立てコンベヤラインヘ払い出し、複数連なっている組立てステーション毎に、作業指示・完了操作盤が設けられており、組付け段取りされている該当部品を作業者へ表示し、作業完了を確認するためのものです。

‘K’くんは、調整テストの不具合でラインストップが頻発するので、客先スタッフとの進捗フォロー会議で、客先責任者から、“コンベヤを動かして、現地でSWデバッグをやっている! プロジェクト管理と作業方法の改善” を再三、要求され、自分は信用されなくなっていると言います。翌日、現場の様子を見て検討し、フォロー会議にも一緒に出て、叱られながら改善策を提案し、‘N’さんには当分、現地に滞在してプロジェクト進行の改善を見届けると言う条件で、承諾を得ました。