「アジアの共生」を導く日本の底力とは?(続)
(前回3月8日更新のブログからつづく)
ⅲ) 今井賢一氏の記述を続けます―――;
“こうした中国のダイナミズムの勃興を地政学的視座で眺めると、世界の中心都市としての‘東京の機能’を再評価すべきである。日本における東京一極集中の弊害は、過去の遅れた部分、死滅した部分であり、現在の危機下で新たな見方をして、実り多き部分、未来を孕み生き生きした部分に注目したい。”
さらに、“多様な『技術・文化変換装置』としての東京のもつ優位性である。つまり、世界のあらゆるハード・ソフトの技術と文化を吸収し、修正し、複製を越えて再創造して、何か違うものに変換して再び世界に戻す能力にかけては、東京にかなう都市は存在しないのではなかろうか。”ここで重要とされるのは、“そうした技術・文化の変換作業が、エリートの設計者や技術者だけではなく、町の熟練工や職人、また「オタク」とよばれる若者、そして、高齢者の経験知などの雑多で多様な能力に支えられていることである。”
シュンペータは、“資本主義は本来、共生するはずの職人階層まで追放してしまった。”と嘆いたが、日本には『草の根』的な力を残していることが強みである。
もちろん東京で夢破れた人々、「既得権の暴力」で仕事を失った人々など、「空しい」部分、「死滅した」部分にも目を向ける必要がある。そこは政治の責任において、それらの人々を救う手段を整備すべきである。
同時に、東京と地方をつなぎ彼らのために仕事をつくっている『草の根』的な社会的企業家達が増加していることも注目したい。
今井先生もこの種の財団・研究所の活動に関わっておられるとのことで、“彼らの「底力」に希望を見出すことが多い。”とされている。
“この様な多様な観点を含めて『技術・文化変換装置』を日本の真の底力とするには、東京の奥に存在する京都・奈良に『歴史に培われた本物』があると云う自信を取り戻すべきであろう。” 『歴史に培われた本物』とは、枯山水の例でいえば、みずみずしさを感じさせるため、あえて水を抜いてしまうといった情報凝縮力である。そこにはデジタル情報の蓄積ではなしえない「礎石」のような力がある。重要なことは、そうした「引き算」の文化は日本独特ではなく、世界に通じる普遍性をもっていることだ。世界で最も注目されているデザイン会社米IDEOは、本質的なものを生かすには、ハイレベルな要素技術であってもあえて削ぎ落とす戦略をとっているのと、相通ずるところがある。東京中心の「技術・文化変換装置」は、現代性がもつ過剰な詰め込み、つまり‘足し算’の性質をもつ。そこに歴史に培われた‘引き算’の文化を加え、その両者の相互作用を基盤として、我々の未来をしなやかに創っていきたい。
以上が、上記の日経・経済教室に掲載された、今井賢一氏の記述の要約であるが、私としては、なかなか含蓄のある記述に感じ入り、割愛するところが少なく、かなり原文を転載することになってしまった。
以下に、私の所感として小文をまとめてみました。
今井先生から、東京一極集中の弊害が囁かれる中で、東京の機能を再評価する「技術・文化変換装置」論が出てきたのに対し、私は、現在の日本の経済活動が東京一極集中し、東京vs.地方の格差が拡大するとともに、さらに首都圏においても貧富の差が拡大する中で、 “東京の機能を再評価するとは?”どう云う事なのかと、疑問が出てきました。
先々回;2月15日のブログで、“従来のすべてを‘金’本位で評価する「産業資本主義」の行き詰まりを、「カネ」を越えた「知」の価値観を醸しだす‘人材’本位の「企業文化資本」へ切り替え移行しなければならない。”と、論議しましたが、この‘人材’を東京に集中するとは、企業に例えると、頭デッカチの本社を造るのと同じ様なことではないかと、早トチリし、前段の話とどう折り合いをつけるか、しばし悩みました。そこで考え、こう説明すると理解が得られると納得しました。
;即ち‐‐「技術・文化変換装置」とは、あくまでも‘入れ物’ であり、謂わば「コトづくり」の仕掛けとしてのシステムのコトです。
参照;お勧め書籍:『ものコトづくり 製造業のイノベーション』
その装置にINPUTされるのは多様な「知」をもった人々です。この変換装置の中で、個々の人がもつ「知」が相互触発して、新しい「知」が産まれ OUTPUTされるのです。その「知」を獲得した人々は夫々の地域(海外も含む)へもどり、その「知」を展開する。ここで得られる「知」は、インターネットや、コンピュータの無機質なデータの付き合わせで得られる知識とは異なり、‘志’をもった多様な人間同士の往来と接触によって創発される「本物の知恵」であると云う事です。東京は、日本独特の文化に根付き、規模的にも、歴史的にも、現在のグローバル地政学的見地からも、優れた「技術・文化変換装置」となり得ると云う事です。
是非ともそうすべきだと今井先生は云われています。